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2015年6月 6日 (土)

どて焼き守り続ける 広小路通(5)

FineCity(ファインシティ)から南約300mに、納屋橋と広小路通があります。
その広小路通の昔の様子が、先日の新聞に載っていました。

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 とろりとした茶褐色のみそが絡み付く大根や牛すじ、こんにゃく。「どて焼き」が名物の「島正」(中区栄2)は、かって広小路通に屋台を構えていたころの雰囲気を、今に残している。
 終戦直後から昭和40年代まで、柳橋から栄にかけての広小路沿いには、最盛期で350に上るトタン屋根が連なっていた。
客の背中がのれんからはみ出る。
狭い空間は、人情の”交差点”でもあった。
 島正の前身「きむらや」。
広小路と伏見通の交差点近くにあった東京銀行ビルの前に屋台を構えた。
戦地から戻った故喜邑信彦さんが困窮する中で、妻のきよ子さん(94)と1949年に始めた。
どて焼きは当初からの定番メニューだった。
 常連客だった杉浦銀三さん(81)=守山区=はそのころ三河地方から出てきて、広小路近くの長者町にある繊維問屋で住み込みの仕事を始めた。
上下関係は厳しく、早朝から夜まで働き詰め。
腹をすかせてのれんをくぐった。
 給料の安い杉浦さんはよく、食べた後の串を足元に捨てた。
残った串の本数で勘定されるからだ。
それを見つけた信彦さんが言った。
「そんなことやらんでええ。出世した時に払ってや」
 実家に戻れるのは盆と正月だけ。
ほぼ毎晩ツケで飲んだ。
何も注文しなくても「元気しとるか。がんばれよ」と酒を出してくれる。
信彦さんの素朴な人柄に、じんときた。
「何で通ったかって? ツケを払わないかんから。ツケては払う繰り返しよ」と杉浦さん。
当時を思い出し、照れくさそうに笑う。
 広小路の北側は、銀行や保険会社が連なる金融街。
日本銀行の行員から問屋街の従業員、御園座の歌舞伎役者までが屋台に集い、まさにごった煮だった。
 東京五輪の開催が近づいた63年ごろ、市は衛生問題などを理由に屋台の撤去を決めた。
多くは73年までに廃業。
一部は今池や大曽根などで営業を続けたとされるが、やがて姿を消していった。
 場所を移し、常連の新国劇俳優、故島田正吾さんにちなんで店名も変えた「島正」。
二代目の喜邑定彦さん(69)は今も「どて焼き」を守り続ける。
ただ、味は変わった。
「昔はもっと濃くて辛くて、食材も質がよくなかった。
でも当時はそれがごちそうだった」
 店を継いで20数年、定彦さんは休むことなく働き続けている。
カウンターごしのお客との距離は、屋台のころと同じだ。
「近ごろおやじさんに似てきたね」。
焼酎をすする杉浦さんの言葉に、無言でにやりとした。

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