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2015年6月 4日 (木)

絶頂、東京そして転落 広小路通(4)

FineCity(ファインシティ)から南約300mに、納屋橋と広小路通があります。
その広小路通の昔の様子が、先日の新聞に載っていました。

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 昭和20~40年代、広小路かいわいを覆っていたきらびやかなネオン街。
その中心にあったのは数々のキャバレーだった。
 戦後の混乱が終わらぬころ、広小路の一角でいち早くキャバレーを始めたのが、「夜の帝王」ともいわれた山田泰吉だった。
その人生の絶頂と転落は、今なお語り継がれている。
150503map  1901(明治34)年、岐阜の貧しい農家に生まれた。
柳ケ瀬で一旗揚げた後、保険会社の従業員などを経て商売の才覚を現した。
46(昭和21)年、広小路通に面した富国生命ビルの地下にキャバレー「赤玉」を開業する。
 事業は大当たり。娯楽を求めていた市民が殺到し、大繁盛した。
タンゴやジャズの軽快な音色に乗り、男女が体を近づけて踊りに興じた。
当時、赤玉で演奏していた元アコーディオニストの角谷精三さん(88)=千種区=は「淡谷のり子さんら一流の歌手が歌い、名古屋中の財界人が集まった」と振り返る。
 山田は「中部観光」を設立して複数のキャバレーやパチンコ、タクシー事業を次々と成功させ、当時の金額で数十億円の資産を築いた。
千種区に建てた豪邸は「東山御殿」と呼ばれた。
 角谷さんは当時、バンドの仕事を求めて都会に出て来たばかりの駆け出し。
山田はその若者を米フォード社製の車に乗せて社宅まで送ってくれたというから、豪勢な生活ぶりがうかがえる。
角谷さんにとって、山田は「人情味のある温厚な人物」だった。
 山田には野望があった。
それは東京に世界一のナイトクラブを持つこと。
東京五輪を間近に控えた61年、ついに赤坂にレストラン・シアター「ミカド」を開店させる。
 祖父の代から山田と親交のあった中区の老舗料亭「蔦茂(つたも)」の主人深田正雄さん(66)は、中学生のころ親に連れられてミカドを訪れた。
店の収容人員は1500人。
「ラスベガスみたいにきらびやかで圧倒された」という。
 ミカドは山田にとって、一世一代の賭けだった。
だが当て込んだほど客は入らず、12億円もの負債を出してわずか3年で経営破綻。
あおりで中部観光も行き詰まり、別の企業に買収された。
豪邸は人手に渡り、山田は表舞台から姿を消した。
 その後の山田を知る人は少ない。
深田さんは、家を継ぐため名古屋に戻ってきた84ごろ、晩年の山田から「徳川の埋蔵金を掘り当てる」と冗談とも本気とも取れない話を聞いた。
 その夢もむなしく、昭和が終わるころ、関東の老人施設でひっそりと息を引き取ったといわれている。
広小路かいわいのキャバレーは、バブル期にはディスコに変わり、やがて姿を消した。
 中区の若宮八幡社に「中部観光株式会社赤玉会館」の石柱がある。
山田が寄進したことを示す柱だけが、往年の繁栄をしのばせる。

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