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2015年5月20日 (水)

流行求め男女が行列 広小路通(2)

FineCity(ファインシティ)から南約300mに、納屋橋と広小路通があります。
その広小路通の昔の様子が、先日の新聞に載っていました。

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1953(昭和28)年9月13日、納屋橘東側の通り沿いに「祝 完成」のアーチが掲げられた。
その先にあったのは、最先端の「遊び場」。
レジャーに飢えていた戦後、老若男女が行列をつくり、娯楽を求めた。
一世を風靡した遊び場は、時代の流れに乗り、さまざまに変遷を遂げた。
 最初の姿は、アイスススケートリンク「名古屋アイスパレス」だった。
設立した青山潔(故人)は市内で鉄工所を営んでいたが、空襲で焼け野原となった市中心部に1400坪の空き地を借り、リンクを開業した。
 連日、人だかりでまっすぐ滑れないほど繁盛したが、夏には急きょプールに様変わり。
潔が「スケートは夏には流行らない」と考えたからだ。
枠組みはそのままに、仕切りを作り水を張った。
観客席やステージも備わり、バンドの演奏を聴きながらプールでくつろいだり、水上特設ステージで女子プロレスの興行をしたり。
目新しい物見たさに、人が押し寄せた。
 「昭和30年代から40年代にかけて、納屋橋付近には多くの遊び場があった」。
当時を知る中区栄の磯村義典さんは言う。
富士劇場や納屋橋劇場、名宝会館などの娯楽施設が立ち並び、広小路通は人であふれた。
「時代とともに娯楽の主役は変わったが、すべてがそろっていた」。
広小路はその時々の流行を映す鏡だった。
 リンクも、時の流れの中で姿を変えていった。
58(昭和33)年には2階建てに改築し、ヘルスセンター「名古屋温泉パレス」として営業を開始。
プール用に井戸を掘った際に冷鉱泉が見つかったため、1階を大浴場と大広間、二階をダンスホールにした。
現在でいう健康ランドのはしりだった。
 手と手をつなぎ、体も心も近づくダンスは恋を求める若者にうってつけで、ダンスホールは男女の出会いの場となった。
警察官とデパートガールのダンスコンパやクリスマスパーティーも催された。
ミッキー・カーチスさんや津川雅彦さんら著名人が来場したこともあり、盛り上がりは絶頂だった。
 しかし、時が流れるにつれ、国内外に「遊び場」の選択肢が増え、人の足は広小路から遠のいていく。
所狭しと立ち並んでいた劇場も、一つ、また一つと姿を消した。
 潔は80(昭和55)年に亡くなり、遊び場は生みの親を失った。
「父親には先見の明があった。次々と事業を当てていった」。
息子の真吾さん(67)=昭和区=は、最盛期だった当時のことをよく覚えている。
観光バスが堀川沿いに何台も止まっている光景や、宴会で盛り上がる人たちの声。
今でもふと、思い出すことがある。
「あのころが、広小路の一番いい時代でしたね」
 遊び場はテニスコートになったが、それも納屋橋東側の再開発で2011年に閉鎖。
建物は取り壊され、現在は工事現場となっている。
名残を探すのは、もう難しくなった。

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