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2015年5月27日 (水)

20時間働く繁忙ぶり 広小路通(3)

FineCity(ファインシティ)から南約300mに、納屋橋と広小路通があります。
その広小路通の昔の様子が、先日の新聞に載っていました。

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 戦後の広小路通は、飲食店街の顔も持った。
現在は中村区にあたる納屋橋西側には、ウナギや天ぷら、寿司などの店が所狭しと立ち並んだ。
 当時の面影を残すのが、かしわ・うなぎ料理「宮鍵」(中村区名駅南1)。
1899(明治32)年に熱田・宮宿出身の森鍵次郎が創業したことが、店名の由来だ。
鍵次郎は堀川沿いの料亭「得月楼」で修業していたが、宮鍵創業時にウナギ料理をのれん分けしてもらった。
当時は養鶏業も盛んだったことから、鳥鍋との2本柱で店を始めた。
 戦中は営業ができず、戦後の1949(昭和24)年秋、2代目鉱太郎(故人)が再開させた。
鉱太郎の娘、和子さん(74)は繁忙ぶりを思い出す。
「土用の丑のときは、板さんは火膨れができるほどウナギを焼き続けた」。
鍋も大変だった。
1階の焼き台で火を起こし、客席のある2階に持っていく。
従業員は当時20人ほどで、住みた。
 宮鍵は、和子さんの夫で3代目の博さんが亡くなった後、息子の重之さん(45)が4代目となり、脈々と歴史を紡いでいる。
 寿司は広寿司、柳橋-。
この名文句で知られる有名店「広寿司」も、53(昭和28)年に広小路に店を構えた。
看板商品は、アナゴの切りずし。
地元特産のアナゴを使い、女性や子どもにもなじみやすい甘めのたれを付けて出したことが評判を呼んだ。
 「伏見にアメリカ村があって、軍人さん家族もよく来ていた」。
会長の鬼頭浩さん=中川区=は掘り返る。
調理する様子が見えるよう、ガラス越しに実演販売をして通行人を呼び込んだ。
正月には1日に700升もの米を炊き、職人が1日20時間働く繁忙ぶりだった。
 歴史に残る”事件”もあった。
新年会が行われていた71(昭和46)年1月、店が火事になった。
調理場の天かすから自然発火した。
従業員は全員無事だったが、店は全焼。
営業再開は難しいかと思われた。
「大変だったが、思い入れもあったし、続けようとなった」。
当時専務だった鬼頭さんは、途方に暮れながらも前を向いた。
約1年後、鉄筋コンクリートの5階建てビルが完成し、再出発した。
「常連さんも戻ってきてくれた。あの名文句が生まれたのは、この後のことだった」
 昭和の良き一時代を築いた広寿司本店。
だが、今はもう広小路にはない。
昭和の時代が終わるとともに、90年に広小路を撤退。
バブルがはじけ、店を取り巻く状況は変わってしまった。
広寿司だけでなく他の店も次々と閉めていき、古くからある店は、宮鍵をはじめほんの一連りとなった。
 広寿司は今、名古屋駅などに店を構える。
広小路からなくなっても、味だけは良き時代のまま。
懐かしい、甘い味付けだ。
鬼頭さんは「お客さんに愛された伝統の味だけは、これからも絶やしたくはない」と力を込めた。

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