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2013年6月15日 (土)

<納屋橋100年>(中) 欄干伝える志と熱意

FineCity(ファインシティ)から約300mに納屋橋があります。
070325_16
2007年3月に撮影
その1本北の橋は錦橋で、FineCity(ファインシティ)から約160mです。

先日の中日新聞に、納屋橋が鉄製の橋になって100年という記事がありました。

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20130512  鈍く光る鋳鉄製の欄干。かつて、家族で鉄工所を営んでいた中島なつ子さん(82)=名古屋市熱田区=は納屋橋を渡る時、ちょっと誇らしい。
 橋の両側に連なる欄干は、2010年に亡くなった夫秀之さん=享年(84)=の祖父彦作(1869~1924年)が1913年の架橋時に、県から製作を請け負ったもの。
 「街の誇りの橋。東京や大阪の会社に工事を持っていかれるわけにはいかん」。彦作が、そう力を込めて話したとの逸話が、中島家には伝わる。
 仕事に心血を注いだことは、今の橋を見れば分かる。堀川に張り出した欄干中央のバルコニーには、1610年に堀川を開削した武将、福島正則の家紋「中貫(なかぬき)十文字」の透かし。
唐草模様に尾張三英傑の家紋もあしらわれている。
県の設計書の意匠を忠実に形にした。
 彦作の経営した中島鉄工所が請け負った工事金額は、7604円。
なつ子さんによると、実際には数千円の赤字が出たという。
 「いいものを造るため、採算を度外視したんでしょうね」
 なつ子さんが嫁ぐ以前に世を去った彦作に、会ったことはない。
しかし、豪気だったと聞く義理の祖父の心意気が感じられた。
20130512a 20130512b
 橋の完成度の高さと引き換えに、鉄工所は深刻な経営難に陥り、完成から四年後に倒産してしまう。
「もうこんな商売は、子どもたちにやらせない」。
彦作は工場の機械をすべて売り払ったという。
孫の秀之さんが再び鉄工所を始めたのは、戦後のことだった。
 橋が再び注目を集めたのは、1981年の架け替え拡幅工事の時だった。
時代はとっくにクルマ社会に変わっていたが、橋は大正時代の幅22メートルのまま。
幅30メートルの広小路通が、狭い橋の前後で大渋滞していた。
 工事に伴う欄干修復の担当者は、橋を点検して驚いたという。
 「細工が細かく、相当、高度な技術で鋳物の型枠を作っていたのでしょう。お金もエネルギーもかかるし、力の入っているものだと思った」
 大阪市の御堂筋にあり、国の重要文化財に指定される淀屋橋の修復も手掛けた前田環境美術(東京)。
同社の担当者は30年以上前の記憶をたぐり寄せ、あらためて納屋橋の格調の高さに太鼓判を押した。
 当初計画では、欄干も橋下部のアーチも撤去して、ありふれた鉄製の橋に架け替えるはずだった。しかし工事を担当した元名古屋市職員の社本英さん(65)によると、市民から「慣れ親しんだアーチや欄干を残してほしい」との要望書や電話が市に何件も寄せられたという。
 「在職中、他にも橋の工事を担当したけど、これほど市民から『残して』と言われた橋はなかったね」と社本さん。
修復の方が国からの補助金交付が手厚かったことも追い風となり、計画は全面架け替えから保存へと方針転換された。
 昭和の架け替え計画で、一度は姿を消しかけながらも残った納屋橋。
なつ子さんがしみじみと語る。「立派なもんを残してくれましたよ。私の自慢です」

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