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2013年6月14日 (金)

<納屋橋100年>(上) 活気再び、重なる情景

FineCity(ファインシティ)から約300mに納屋橋があります。
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2007年3月に撮影
その1本北の橋は錦橋で、FineCity(ファインシティ)から約160mです。

先日の中日新聞に、納屋橋が鉄製の橋になって100年という記事がありました。

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 東海地方最大の繁華街・栄地区と名古屋駅を結ぶ納屋橋が、鉄製の欄干とアーチを持つ現在の橋に架け替えられてから、5月5日でちょうど100年を迎えた。
1960年代前半までは、広小路通を散策する「広ブラ」がはやるなど、華やかだった一帯。
1世紀ぶりとなる「渡り初め式」が開かれた10日夕、橋には往時のにぎわいが、しばし復活した。
節目を機に、橋とともに暮らした人々の思い、大正から昭和、平成にまたがる物語をあらためてたどってみた。

20130511a  ビル街に挟まれた鉄橋を、ウエディングドレスや傘を差した着物姿の列がしずしずと渡る。
10日、納屋橋饅頭(まんじゅう)(名古屋市中村区名駅五)の5代目、三輪芳久さん(44)は、店に伝わる前回の渡り初め式の写真の情景を思い返していた。
 「百年でずいぶん街は変わったけれど、橋の形だけは変わらないですね」
橋周辺にはまだ、高い建物が少ない時代だった。
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 1913(大正2)年5月5日、鉄製のアーチ橋に生まれ変わった納屋橋。
当時の新愛知新聞(中日新聞の前身)は、完成を祝う式典に数万人の見物人が詰め掛けた、と伝えた。
紙面には、2階建ての屋根の上まで人の姿が見える写真。
 にぎわいの中心にいたのは6組の夫婦。
式をきっかけに店名を「伊勢屋」から「納屋橋饅頭」に、「三和弁」を「長命うどん」に替えた2軒の、それぞれ3世代の夫婦だった。
記事によると橋近くに店を構え、ともに若夫婦と両親、祖父母がいたため白羽の矢が立った。
2軒はその後、名古屋の名物に育った。
20130511map  「貧しいから自分のためには買えなくて、お土産に買ったぐらい。店頭に多くの人が並んでいましたね」
 46年に結婚し、夫と橋西側の堀川沿いに額縁店を構えた高山貴久代さん(85)が、終戦直後を振り返る。
 食料難の当時、納屋橋饅頭はあこがれだった。
通りには復員した傷痍(しょうい)軍人の姿が目立ち、土手煮や焼酎を売る屋台がひしめいた。
 劇場が5軒以上立ち並び、若者でにぎわうように。
人気漫才師エンタツ・アチャコら大スターが訪れ、橋の下の荷揚げ場には芸者が舟で乗り付けた。
 川面に映るネオンサインを見ると、高山さんの脳裏にはかつての光景がよみがえる。
夏になると納屋橋の欄干で仕掛け花火がはじけ、橋の上の出店で長女と金魚すくいをした。
近くの洲崎神社の夏祭りには、そろいの法被を着た子どもたちの姿もあった。
 街が大きく変わったのは60年代。高度経済成長の陰で生活排水などが流れ込み、堀川の水質は悪化の一途をたどる。
57年に地下鉄東山線が名駅-栄間で開通すると、人々は堀川の下を通り過ぎ、テレビの普及で劇場の客も減った。
 夫を昨年亡くし、今は長女や孫と店を切り盛りする高山さん。
地元の有志が企画した今回の渡り初め式を目の当たりにして「普段からこれぐらい人がいると街も元気になるね」と、あいにくの雨にも笑顔を見せた。
 橋から3キロ離れた中村区下中村町に、57年に店を移した長命うどん本店。
礼服姿で橋を渡った社長の神野光広さん(51)は、遠くない未来をみつめた。
 「再び人を引きつける街になってほしい。百年後も、長命うどんとして、渡り初めできたらいいですね」

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